大都の歴史
大都の75年の歴史を紹介します。
年表の各年代をクリックすると、各々の出来事の詳細な情報を見ることが出来ます。
1940年(昭和15年)
木原工業の誕生
木原工業(後の大都製作所)は創業者 木原茂の手によって鉛筆工場からスタートしました。
【木原 茂 略歴】
明治43年(1910年)生まれ。30歳の時に、木原工業を創立。以後、大都工業株式会社、株式会社大都製作所社長として、昭和50年(1975年)に没するまで、大都グループの先頭に立って力強く牽引してきました。人との調和を大事にし、頼まれれば嫌と言えない親分肌で、社員からも大いに頼りにされていました。また、人が避けて通る困難なことに進んで挑む、チャレンジ精神旺盛な人物でもありました。
1944年(昭和19年)
大都工業株式会社創立
創立当初は三河島のプレス工場で絵の具用パレットや生活用品のプレス製品を手掛けていましたが、後に自転車のバンドブレーキ、ベルなどを製造するようになりました。
やがて、大都のバンドブレーキと好評を博して自転車業界で親しまれるようになります。
右の写真はバンドブレーキの初出荷に胸躍らせる社長と社員一同の記念写真です。大都のバンドブレーキは広く一般に知られるようになりました。
1956年(昭和31年)
株式会社大都製作所に社名変更
大都工業は、三河島の工場から赤羽に移転と同時に大都製作所に社名を変更しました。
昭和32年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したその翌年、日本経済はなべ底不況になりました。昭和35年に政府は所得倍増計画を決定し、その後の株式大暴落(昭和36年)、金融引き締めと解除など、めまぐるしく日本経済が揺れ動く中、赤羽に移転した大都製作所は電気釜、電気ストーブなど、家電製品のプレス、塗装、組み立てを行っていました。
開発当初の還元機
1963年(昭和38年)
遊技機(パチンコ)の電動還元機の開発、製造開始
遊技機(パチンコ)メーカーからの開発依頼を受けて、大都製作所は高性能の電動還元機を目指して研究開発に取組みました。
大都が目指す高性能電動還元機への道は、まさに試行錯誤の連続でした。
当時、故障のない完成度の高い還元機となるとどこも販売していませんでした。妥協することなく納得のいく電動還元機を完成させるためには下記に記載されるいくつかの超えなければならないハードルがありました。
・スムーズなパチンコ玉の移送
・モーターの耐久性
・狭いホールでも場所を取らないコンパクトな仕様
開発の過程の中で、大都は信頼性の高さを追及しました。
1964年(昭和39年)
還元機完成
大都製作所は、還元機の販売、普及に伴い各地に営業所を設置しました。
モーターの焦げ付きの多いベルト方式に対して、大都は信頼性の高いステンレスのチェーン方式を採用することによって高性能のものを作り上げました。
還元機・・・当時人力でパチンコの玉を上皿タンクに上げていたのを、モーターの動力で自動的に玉を一個一個上げる機械。
信頼性の高さに加えてアフターサービスにも力を入れました。
1965年(昭和40年)
各種自動販売機の製造開始
某還元機メーカーが倒産し、倉庫にあった不良在庫を格安で販売処分した為、大都の還元機が売れなくなる事態になってしまいましたが、一方、還元機での開発技術を評価され、開発依頼を受けて自動販売機事業をスタートしました。
1969年(昭和44年)
自動玉貸機開発に着手
百円玉の普及が進むなか、自動販売機の製造で得たノウハウを遊技業関連に応用させました。
同時に業界ではいち早くコンピュータに着目。画期的な高性能コンピュータを開発し、直営ホールに実際に設置稼動させました。
翌年は自動玉貸機の発売を開始しました。
さらに百発皿付きパチンコ機が出ると、大都の還元機が大好評を得て広く普及しました。
1972年(昭和47年)
千円札両替機発売
フィーバー機の爆発的なヒット以後、高額紙幣の両替、玉貸機の需要が増えました。
大都は一番最初に万札の両替機を手掛けました。難しい紙幣の識別、搬送については、昭和47年以来、両替機を製造してきた大都の技術が実を結びました。
しかし、ここまでの道程は決して平穏ではありませんでした。何度もテストを行い、厳しい検査を重ね出荷しても、テストでは起こらないトラブルが実際には発生しました。その度に原因を追求し改良を重ねてきました。
その地道な努力から得た大都の教訓は、『機械の性能に余裕を持たせる』ということです。
いまでも、この教訓は大都のものづくりの思想となっています。
ハンバーガー玉貸機「BR100-T」発表
1974年(昭和49年)
ハンバーガー玉貸機発売
昭和48年に電動式パチンコが誕生するとホールにイスが定着し、台と台の間に挟む台間玉貸機が考案されました。そんな中ホールからの強い要望もあってハンバーガー玉貸機を開発することになります。
1975年(昭和50年)
コンピュータ開発に本格着手
ホール全体をコンピュータ管理するシステムの開発、製造に着手しました。
●創業者木原茂逝去
パーラーコンピュータ「DAC-2000Σ」発表
1977年(昭和52年)
大王電子株式会社設立
ホールの様々な要望に応えるべく、システム開発、ネットワーク化、ソフトウェア開発のためにコンピュータ部門を法人化し、大王電子株式会社を設立しました。
1981年(昭和56年)
大都販売株式会社設立
昭和56年に大都製作所より販売部門を独立させ、大都販売を設立、業務を開始しました。
写真は、大都販売株式会社設立披露パーティーの様子です。
●島還元補給システム「DL-1」発表
1992年(平成4年)
株式会社大都エンタープライズ設立
大都グループ(大都販売、ダイト)の物流拠点として、茨城県に株式会社大都エンタープライズを設立しました。
1993年(平成5年)
株式会社ダイト/本社ビル竣工
株式会社ダイト 本社ビルを東京都文京区に建設、移転しました。
1994年(平成6年)
大都グループに株式会社エーアイが加わる
大都グループはスロットマシン、パチンコの開発に着手し、設備機器のメーカーから遊技機メーカーへとさらに一歩を踏み出しました。
1994年 |
●マネージメントコンピュータ「DAC-550MS」発表 ●ダイトライン補給システム「SF-1」発表 ●独立島システム・ダイトアイランド「SF-7」発表 |
---|---|
1995年 |
●パーラーコンピュータ「DAC-6000Σ」発表 ●「DAC-750MS」にデスクトップ型、ノート型パソコン接続を実現 |
1996年 | ●ワンフロア補給システム「SF-8」発表 |
次々と新製品が発表されるなか、ユーザーに、より満足いただける仕事を実現するためのアフターケアの充実を計りました。全国の30営業所(九州大都を含む)によって日本全国のほとんどを網羅するようになりました。
4月9日、「大都販売本社ビル落成感謝フェア」での会長、社長及び大都フェア運営社員スタッフの記念写真
1997年(平成9年)
大都販売株式会社/本社ビル・研修センター竣工
本社ビルと研修センターの完成を祝した「大都販売本社ビル落成感謝フェア」は東京帝国ホテルで盛大に行われ、4000人もの来場者を集め、新体制のスタートにふさわしく大成功に終わりました。
●株式会社エーアイを株式会社大都技研に社名変更
2002年(平成14年)
株式会社ダイトテクス/歯ブラシ製造工場竣工
株式会社ダイトが販売するアメニティーの1つである歯ブラシ製造のため、株式会社ダイトテクスを茨城県阿見町に設立しました。
2014年(平成26年)
株式会社大都技研/板橋工場竣工
大都技研の工場機能を東京都足立区から東京都板橋区に移転しました。